九十九里鉄道の残像(1)
−東金駅の亡霊たち−

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 昭和40年代に、キネマ旬報社から「蒸気機関車」という鉄道雑誌が発刊されていました。それまでの雑誌に比べると、私鉄専用線や軽便鉄道、国鉄も地方ローカル線を題材にして、鉄道を情緒的、情景的にとらえた記事が多かったように思います。多感な時期にこの雑誌の影響を受け、その後の鉄道趣味の方向性が決まっていったような気がしています。
 その「蒸気機関車」1970年(昭和45年)夏の号で、KHSIER PRO(キセルプロ)の「空虚なる響き九十九里鉄道」と題された記事を見ました。この記事で九十九里鉄道の存在や、知識でしか知らなかった単端式気動車が東金駅跡に放置されていることなどを初めて知りました。

 九十九里鉄道は、千葉から銚子に向かう街道沿いの街 東金と、九十九里浜のほぼ中央の街 上総片貝を結んでいた全長8.6km、軌間762mmのささやかな軽便鉄道でした。
 開業は大正15年で、当初は軌道としてスタートし、後に地方鉄道に変更、昭和36年3月に廃止されました。開業当時に新製された木造の丸山式自働客車(単端式ガソリンカー)を、車体の更新(鋼板張り)やエンジンの換装を行いながら廃止時まで使い続けたことで有名で、大変貴重な存在でした。
 この丸山製単端、キハ102〜104の3両が、他の客貨車とともに廃止後10数年もの間、東金駅の構内に放置されていたのです。頸城鉄道のジ1なき後、唯一形を留めていた丸山製単端であっただけに、かろうじてその姿を記録することができたのは幸いでしたが、そのまま朽ち果ててしまったのはなんとも残念なことです。



  − 1970年10月24日 東金駅跡にて −  

東金駅本屋・事務室から


 1970年秋の日吉祭(高校の学園祭)が始まる10月24日、鉄研恒例の「楽しい駅弁販売」の担当を可愛い下級生に譲って(押し付けたのではない・・・・はずです)東金へ向かいました。
 初めて降り立った国鉄東金駅ホームの裏側には、草むしてはいるものの、探し求めていた軽便鉄道の情景が広がっていたのです。
 KHSIER PROの写真は1966年頃に撮られたようですが、それから4年の歳月は車両の崩壊をさらに進め、鋼板を貼った腰板周りと屋根こそ形を留めていたものの、木製の窓周りはほとんど朽ち果てていました。しかし駅舎や倉庫の廃墟と廃車体とが並ぶこの情景に、強い感動を覚えたことが鮮明に蘇えってきます。
左からケハフ301、キハ102・・・
右はキハ103、左がキハ104
線路跡を跨ぐ「首吊り台」

キハ103
キハ102のボンネット
朝顔型カプラー




 2回目に訪問したのはちょうど1年後の1971年10月23日。この時は廃線跡をたどりつつ終点の上総片貝駅跡まで行きました。片貝駅はレールがはずされた以外は姿を留めており、駅舎やホーム、車庫も九十九里鉄道のバスがそのまま利用していました。
 この時の片貝駅の様子は、次回掲載する予定です。

 3回目はさらに2年後の1973年9月、銚子電鉄の撮影に行くついでに立ち寄りました。将来の模型化に備えて車両のディテール写真を撮るのが目的でしたが、車両の朽ち方は極めて激しく、また身の丈ほどまで生い茂った雑草のため目的は果たせませんでした。
 もっと前に撮っておくべきだったと悔やんでも後のまつり・・・



  − 1973年9月27日 東金駅跡 にて−  


屋根が落ちたキハ102
キハ104

手ブレーキハンドルとシフトレバー
網棚(板敷きだが)
運転席と客席の仕切り部分


スポーク車輪、ケハ111のもの?
転げ落ちたフォードV8



 次回の(2)では、原形を保っていた九十九里鉄道のストラクチャーを中心に紹介します。
東金駅の駅舎や、ホームにバスが横付けしていた上総片貝駅の駅舎、機関庫、駅前の商店などなど・・・ その他、乗車券類や初公開の図面なども・・・  乞うご期待!