3.車輌以外の16番関連製品と1960年代の鉄道模型まとめ

前回まで1960年代に発売された16番車輌製品を発売模型店別にご紹介してきましたが、今回は車輌以外の鉄道模型関連製品にどのようなものがあったのか、概略を述べたいと思います。またこの連載の締めくくりとして、数多くの16番の新製品が登場し、飛躍的に模型製品の内容が向上した1960年代の時代背景等、当時の国内における鉄道模型界をまとめてみたいと思います。

3-1 車輌以外の16番関連製品

1.線路

カワイ模型店 木製道床付の線路
 動くということに他の模型と鉄道模型の本質的な違いがあるとすれば、鉄道模型に関連して車輌の次にご紹介すべきなのはその基本となる線路でしょう。1960年代初頭は戦後15年経ってはいたものの、日本、特に都市部の一般住宅事情は改善されておらず、4人家族の家庭でも普通のサラリーマン世帯では40−50uがせいぜいで、ごく一部の住居に余裕のある方が固定レイアウトを作られてはいたものの、一般のファンは狭い畳敷きの部屋にプラ枕木付の線路や木製道床付の線路で所謂お座敷運転を楽しんでいる状況でした。筆者も1959年(昭和34年)16番を始めた当初はプラ枕木付の線路(フレキシブルではなく直線・曲線固定で道床のないもの)をつないで畳の上で運転していましたが、さすがに脱線が多く、暫くしてカワイモデルの木製道床付の線路に取替えました。現在でも販売が継続されているカワイの線路は、枕木を彫り込んだ後に灰色に塗装されたベニヤ製の道床部分に真鍮製100番の引抜きレールをスパイク止めしたもので、直線は長さ49cm、曲線は半径16インチ(約40cm)から36インチ(約91cm)まで2インチおきに用意されていました。ポイントもサイディング、ターンアウト、片渡り、両渡りさらにダブルスリップや三線分岐、車止め付の線路等が揃っており、お座敷運転をするには好適でした。ちなみに1960年(昭和35年)当時、49cmの直線が¥120、#6のサイディングが¥350程度でした。天賞堂も同様の木製道床付の線路を販売していましたが、こちらは道床がニス仕上げでした。当時既に篠原模型店から洋銀製100番引抜きレールを使用したフレキシブル線路が発売されていたにも拘わらず、これらの道床付線路は現在の9mmゲージのレイアウトのように、固定レイアウトにも採用されていた方が多かったことは興味深いところです。ポイントマシンも各社から電磁式の製品が発売され、遠隔操作を可能としていました。

2.パワーパック

 1950年代から運転用のパワーパックは各社から発売されていましたが、まだ初期の段階で殆どの製品がトランスで電圧を交流100Vから16V程度に下げ、これをセレン整流器で12V の直流にして抵抗器(レオスタット)で(電圧ではなく)電流を変えて運転するという仕組みで、逆転(進行方向切替)用のスナップスイッチが1つ(ないしリバース線路用にもう1つ)付いているというのが一般的でした。しかし車両のスイッチを切り替えないと進行方向を逆転できない交流3線式の0番(32mmゲージ)に比べると、車輌に触れることなく逆転運転ができ、はるかに実感的な運転が出来るものでした。1960年代になるとエレクトロニクスの発達に伴い、1963年(昭和38年)には高級ファン向けに天賞堂が初めてトランジスタを使ったコントローラー(トラコン)を発売しました。ご存知のとおりトラコンは実物のように速度を増すツマミと減速するツマミが分かれており、増すツマミを任意の位置で止めると徐々に速度が上がり、減速するツマミを廻すと徐々に減速して停止するという、極めて実物に即した運転が出来る画期的なコントローラーでした。この時代になると模型はただ動けば良いという状況を脱しつつあり、運転を楽しむ余裕が生まれてきた結果ともいえるでしょう。但し発売当時、シュパーブC62のキットが¥11,000であったときに、この天賞堂のトラコンの価格は¥15,500であり、誰にでもすぐに手の出せる製品ではありませんでした。

3.レイアウト用品

 前述のように1960年代はまだ固定レイアウトを持てる方は極めて少数で(今でも状況は余り変わっていませんが)、ディオラマというような考え方も一般的ではなく、本格的なストラクチャー等のレイアウト用製品はほとんど販売されていませんでした。僅かに市場にあったのは遠藤商店が発売していた、お座敷運転時に線路周りを飾るブリキ製のホームや信号扱所、機関庫などがあるだけでした。まだ模型というレベルでの製品ではありませんでしたが、それでも殺風景な畳の上では実感を高めるのに有効で、気分を盛り上げたものでした。そのほかの地面を覆う草・樹木用の素材や小物のアクセサリー等の製品はなく、固定レイアウトを製作しようとするモデラーはおが屑や鉛筆の削りかす等々、様々な素材を工夫・加工していました。

3-2 1960年代の鉄道模型のまとめ

1.国民所得の向上

 1950年代半ばまでは多くの国民は日々の生活に追われレジャーや趣味を楽しむ経済的・時間的余裕も少なく、したがって鉄道模型ファンの購買力も十分とは言えなかったため、多くの鉄道模型メーカーは経済的な余裕があり趣味としての模型が幅広く定着している米国向けの輸出を主体としていました。戦後円もドルに対して比較的安い¥360/ドルに固定されていたこともあり、天賞堂やカツミそして国内のファンには名も知られていない多くのメーカーが輸出により成長をしていました。しかし1960年(昭和35年)に当時の池田勇人首相が10年で国民所得を倍増させる計画(「所得倍増計画」)を発表、1960年代初頭は、戦後15年が経過し60年安保反対闘争等もあったものの社会的には平穏を取り戻し、経済的にもその後の大幅な発展の基礎が固まりつつある時代でした。いまだ米国との経済的な格差は大きかったものの、国民の多くが食料の心配から解放され、多少の経済的・時間的な余裕が生まれてきたため、所謂レジャーというものに目が向け始められたころでした。生産性の向上を通じて1960年代日本経済は順調に発展し、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催を契機に新幹線が登場し、名神高速道路や首都高速が開通するなど国民生活は豊かさを増しました。国産工業製品の品質も向上し1966年(昭和41年)頃には所謂新三種の神器として3C(カラーテレビ・カー・クーラー)がもてはやされ、まさに現在の中国の目覚しい発展と同様な状況になりました。1960年(昭和35年)と1970年(昭和45年)を比較すると、インフレも激しかったものの賃金の上昇は消費者物価の上昇を大きく上回り、経済的ゆとりが出てきたことが分かります。このように国内のファンが所得面で余裕が出てきたことにより、輸出に依存し大きく品質を向上させたメーカーが、国内市場に目を向け始めたことが1960年代の鉄道模型界の大きな発展に繋がった一因でした。しかし多くのメーカーは依然輸出が主体で、国内向けの製品は組立の人手不足もあり、常に品切れを起こしているような状況でした。このような背景の下1960年代の後半には製造方法自体の発展や合理化も進み、手作り模型の良さは多少失われたものの、ディテールも豊富になり現在の鉄道模型の基礎が確立されました。
 ここで1960年代の賃金と鉄道模型の価格についてみてみましょう。現在でも16番の真鍮製の鉄道模型製品は大変高価ではありますが、今とは比較にならないディテールレベルや旧式の伝動装置などの製品の質や当時の賃金を考えると、高級鉄道模型はやはり大変高価なものであったことが分かります。しかしメーカーにより所謂高級製品と比較的安価な普及製品、そして入門者向けのフリーランスの製品と様々なレベルのファンに対応できる製品が市場に供給されていました。



大卒初任給主な16番製品と価格
1960年(昭和35年) カツミED70未塗装キット―¥3,150
1961年(昭和36年)¥15,700カツミD51未塗装キット―¥7,150
1962年(昭和37年)¥17,800天賞堂DF50完成品―¥4,990
1963年(昭和38年)¥19,400カツミC62未塗装キット―¥11,000
1964年(昭和39年)¥21,200天賞堂ED42完成品―¥4,990
1965年(昭和40年)¥23,000天賞堂9600完成品―¥11,000
1966年(昭和41年)¥24,900カツミC57未塗装キット―¥11,000
1967年(昭和42年)¥26,200トビー8620未塗装キット―¥8,350
1968年(昭和43年)¥29,100カツミC59未塗装キット―¥5,490
1969年(昭和44年)¥32,400天賞堂EF58完成品―¥11,800
1970年(昭和45年)¥37,400水野4110未塗装完成品―¥18,900

 1968年(昭和43年)には日本はGNPが世界第2位となるなど先進国の仲間入りをしましたが、1971年にニクソンショックにより大幅な円高となったことにより輸出は打撃を受け、国内メーカーもさらに国内の市場を重視していくこととなりました。一方賃金の上昇は労働集約的な鉄道模型産業にも影響を与え、ファンの高級志向と同時に価格も大幅に上昇していくこととなりました。

2.技術水準の向上

 1950年代の一般的な国産工業製品は品質も悪く、多くの国民は米国をはじめとする「舶来品」にあこがれていました。この時代の国内の鉄道模型界は、一部のメーカーが0番製品や戦後普及し始めた16番製品を販売していましたが、品質は高級ファンを満足させるものではありませんでした。国内向けの模型製品は真鍮板ないしブリキ板をプレス加工し、半田組立したものでしたが、設計もスケールを重視した製品は少なく、部品も挽物やソフトメタル製が殆どで、台車もドロップ加工のものが大勢を占めていました。一方輸出を主体としていた模型メーカーは、米国からの品質に対する高度な要求に応えるため、設計から製法に至るまで製品の品質を大いに向上させていました。米国では組立が丁寧で品質の良い真鍮製品である日本の模型は高級鉄道模型の代名詞になっていたようですが、当時の国内のファンは国内向けの製品と輸出向けの製品の品質の差に、米国と日本の国力の違いを見せつけられている思いがしました。しかし前述のように輸出主体のメーカーも1960年代に入ると国内市場に目を向け始め、輸出で培った設計や製造技術を国内向け製品に取り入れたため、16番製品の内容は一気に向上しました。エッチングの採用により帯やリベット、窓枠等が美しく表現できるようになり、ロストワックス部品は高価なため部品の点数はまだ少数でしたが、細かいディテールが必要な部品を製造するのには最適な製法となりました。更に従来シーズンクラックが多く発生していたダイキャスト製品の品質の向上やプラスティックの発達により、鉄道模型の製法全般が飛躍的にその幅を広げ、1960年代の後半には多くの台車は立体感豊かなダイキャスト製となり、車体まで全てプラスティックで作られた車輌製品は僅かしかありませんでしたが、ベンチレーターや床下器具などはプラスティック製品が多く使用されるようになりました。しかし技術の発達により機械での製造が可能になった部分も多く、組立の正確性は向上したものの人手不足もあり手作り感は次第に損なわれていったとも言えます。

3.実物の鉄道の発展

 一方実物の鉄道に目を向けると、経済復興・発展に伴い、1950年代後半より国鉄も量より質の時代に突入し、1960年代終盤までに後世に名を残すような所謂昭和の名車が次々と誕生しました。年毎の主な新型車輛(国鉄のみ)は次のとおりです。

1955年(昭和30年)ナハ10
1956年(昭和31年)ナハネ10・キハ55系
1957年(昭和32年)ED70・DF50・101系
1958年(昭和33年)ED60・ED61・DD13・20系客車・151系・153系
1959年(昭和34年)D61・ED71・155系・157系
1960年(昭和35年)EF60・EF30・401系・421系・キハ81系
1961年(昭和36年)ED72・EF70・EF61・DD14・キハ82系・キハ58系・キハ35系
1962年(昭和37年)EF80・DD51・EF62・EF63・451系・471系・111系
1963年(昭和38年)ED75・165系・115系
1964年(昭和39年)EF64・481系・181系・103系・新幹線0系
1965年(昭和40年)EF65・ED76
1966年(昭和41年)DE10・DD54・301系・キハ90系・キハ45系
1967年(昭和42年)ED77・581系・711系
1968年(昭和43年)EF81・EF71・ED78・EF66・583系・485系・キハ181系
1969年(昭和44年)457系・キハ65系・12系客車

 上記のとおり鉄道ファンにとってはまことにエキサイティングな時代であり、また同時に蒸気機関車や旧型電機をはじめ古典的な車輌も共存するまことによき時代で、これらの背景も鉄道模型メーカーに新製品の発売を動機付ける一因になったと思われます。事実蒸気機関車をはじめ旧型車輌の製品化と平行して、実物の登場後1〜2年で製品化された模型も多く、多くのファンは大変恵まれた環境にいたように思います。

4.鉄道模型趣味誌(TMS誌)の貢献

 終戦後依然社会的・経済的混乱の続く1948年(昭和23年)に、早くも16番を提唱した故山崎主筆が編集するTMS誌の鉄道模型界の発展に貢献した役割は、甚だ大きかったと言わなければなりません。筆者がこの世界に足を踏み入れた1959年(昭和34年)当時でも、クラブでも入っていない限り他のファンがどのような車輌やレイアウトを作っているのか知るすべも無く、また市場にどのような製品が販売されているのかは全てTMSの記事が唯一の情報源でした。また山崎主筆のコラム「ミキスト」は海外からの情報を含む常に新鮮な話題を提供し、時にはメーカーを叱咤激励しファンにも知識の吸収を促しています。いずれにしても当時同誌はメーカーとファンをつなぐほぼ唯一の場で、アンケート調査等を通じてファンの希望をメーカーに伝え、メーカーの新製品は辛口な「製品の紹介」を通じてファンに紹介されました。単なる鉄道模型の雑誌の域を超え、鉄道模型界の将来を見据えた編集方針は他の雑誌には見られないものでした。

5.9mmゲージ製品の登場

 筆者は現在に至るまで所謂HOサイズのみで通してきたため、9mmゲージ製品に縁がありませんでしたが、1960年代の大きな流れとして9mmゲージの台頭がありますので最後に一言触れて締めくくりたいと思います。
ソニー 9mmゲージ試作品
 前述のとおり1960年代の初頭は16番製品が全盛となりましたが、60年代も半ばになると製品の高級志向や人手不足等による賃金の上昇等もあり、製品の価格も上がり一般のファンにとっては痛し痒しの状況となりました。また16番は日本の住宅事情を考えたときに、本格的な固定レイアウトを作るにはややサイズが大きいこともあり、世界的に台頭してきた9mmゲージに目が向くことになりました。進歩したプラスティック技術もその製造を可能にした背景にあったと思います。1965年(昭和40年)に関水金属(現カトー)が、国内初の9mmゲージ製品としてC50とオハ31の発売に踏み切りました。レイアウト志向で近代車輌向きと思われた9mm初の製品としては車種の選択に疑問がありましたが、車体はきれいにモールドされたプラスティック製でC50の台枠はダイキャスト製、テンダー台車はドロップ製とし、販売価格は完成品でC50が¥3,950、オハ31が¥950でした。その製品は従来の16番ファンにはかなり小さく感じられ、当時は車輌を自作できる大きさではないと敬遠されたファンもいますが、その出来の良さや走行性能・価格により次第にファンを増やし、現在の9mmゲージの隆盛の基礎を作りました。同時期にあのソニーが9mmゲージ製品の発売を企画し、実際試作品まで作っていたことは特筆すべきことです。車輌はED75とスハ43で、線路やパワーパックまでもセットとした製品を考えていたようです。筆者は偶々兄の友人からその試作品を入手していましたので、ここに写真をお目に掛けます。発売に至らなかったのは残念ですが、もしソニーが9mmゲージの市場に参入しその後も活動し続けていたら、鉄道模型の世界も大きく変わっていたかもしれませんね。


(2008年7月 M.F)



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