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1.カワイモデル 1928年(昭和3年)からの老舗鉄道模型メーカーであるカワイモデルは、1950年代から鉄道模型社やつぼみ堂模型店とともに積極的に16番の製品を発売していました。1950年(昭和25年)には早くもED14を製品化、その後60型蒸機、EH10、スハ43系客車や貨車、そして国電は70系・80系・72系・153系・155系と矢継ぎ早に製品化して大いに気を吐いていました。1960年代に入ると1961年(昭和36年)に157系電車、そして1962年(昭和37年)には初の大型制式蒸機C59を発売しました。さらに1964年(昭和39年)には新幹線の登場により姿を消す直前の東海道線の花形特急151系を一挙に11形式を発売、その後も1965年(昭和40年)には試作交流電機ED91、古典蒸機2120型とC59を二軸従台車化したC60、1966年(昭和41年)には当時近距離の通勤輸送に大活躍をしていた101系・103系電車と2軸コンテナ車チラ1、1967年(昭和42年)には中距離通勤電車111系と113系、無蓋車のトラ45000、そして通勤型の気動車キハ30系と立て続けにリリースしました。しかしその後は新たな製品の発売は少なくなり、これらの製品群が40年を経た現在においても大きな設計変更も行われず販売され続けていることは皆さんご存知のとおりです。 1950年代のカワイモデルの製品は、設計の問題故かスケール感が今ひとつでしたが、1960年代に入って発売された新製品では全体のスケール感はかなり向上し、まだ部品のオーバースケール等はあったものの老舗メーカーの意地を見せていました。しかし戦後主に米国への輸出により設計や製造技術を磨き、1960年代から本格的に日本型16番に参入してきた天賞堂やカツミ模型店等の製品に比べるとやや時代に遅れてきた感がありました。例えば,確かにソフトメタル鋳造は彫り深いディテールを表現するには適当な製法ですが、やはりスマートな新型電車の先頭部を表現するには無理があったように思います。また木製の床板も走行音が静かになり絶縁し易い等のメリットはあると思いますが、金属製車体との相性の点から扱いにくさが先にたちました。一方、他社では1960年代も後半に入ると製造の合理化が進み始め、出来るだけ職人技に頼らない製法を用いた製品が増えてきましたが、カワイモデルはかたくなに伝統的な製造方法を守り、例えば箱物製品の客用扉は他社がプレス加工による表現となりつつあるにも拘らず別貼りを続け、また雨樋も線材を丁寧な半田付けにより貼り付けるなど、その意味では好感の持てる製品群でした。いずれにしてもプラスティックの部品やエッチング加工も見られず、真鍮プレス、ソフトメタル、挽物そしてドロップで全てを作っており、その製法は16番製品の創成期の面影を強く残していました。 一方、動力機構は当時の他社製品と同様、箱物製品では同社製の低電圧向きといわれた強力な縦型モーターにウォーム・インサイドギアによる伝動でしたが、カワイ製品の一貫した特長としては良く走ることでした。また、他社製品の販売がキット主体から完成品主体に変わりつつあった時代に、カワイモデルは常に組立済未塗装ボディ、塗装済キット、完成品等を揃え、購入者は自らの目的や技術レベルに合わせた購入方法を選ぶことができ、メーカーとしては手間の掛かる販売方法であったと思いますが、ファンのことを真面目に考えてくれていたメーカーという印象でした。また、当時から車輌のみならず台車や床下器具等の部品、木製道床付各種線路、ポイントマシン、パワーパック自作用の電気部品等々、鉄道模型を始めるファンにとって頼りになる模型店でした。筆者は小学校の低学年の頃から都電に乗って神田須田町の本店に通い、木製道床付の線路や部品・台車等を購入していましたが、有名な「カワイのお姉さん」は子供に対してもいつも丁寧にやさしく接し、いかにもカワイのファンに対する思いを表しているようでした。大学時代(と言っても30年以上前ですが)に久方ぶりに一度本店を訪れた際、まだ私を覚えておられただけでなく住居地までご記憶にあったことには大変驚くと共に、この姿勢がカワイモデルを現在に至るまで繁栄させてきた源泉のように思います。 筆者は、鉄道模型を始めた1960年代初頭にカワイモデルの80系電車のサロ85、サハ87とクモユニ81、客車ではスロ60そして貨車のワム70000を購入しましたが、現在車輌の形をしているのはサロ85格下げのサハ85とワム70000だけです。後にクハ153とモハ153の贈与を受けましたが、これらも休車中です。また当クラブでも同社の製品を所有しているメンバーが少なく、余り写真をお目に掛けられないのが残念です。 機関車 1950年(昭和25年)、まだ戦後の混乱も収まらない時代に発売されたED14は、真鍮板の半田付け組立でしたが、さすがに時代を反映してディテールはあっさりしており、初期の製品は前部デッキをプレス製の台車に固定することにより半径150mmのカーブも通過できると宣伝しています。しかしその後製品化された60型(1956年/昭和31年発売)やEH10(1957年/昭和32年発売)・ED91(1965年/昭和40年発売)はカワイモデル製模型の特徴となったソフトメタルの一体鋳造で、ディテールを表現しやすく、また機関車の場合はその重量が牽引力に有利であったものの、その製造方法ゆえ肉厚となり、ぼってりとした感じのモデルとなりました。同社の1960年代の広告によると、ソフトメタルでEF65の発売も計画されていたようですがその後どうなったのでしょうか? 電機群の動力伝動装置は当時の定石どおり、縦型モーターとウォーム・インサイドギアというものでした。 1962年(昭和37年)、カワイ初の制式大型蒸機C59が発売になりました。さすがに全力投球した製品のようですが、前年にはカツミからシュパーブのD51が発売されていたことも有り、比較されやや損をした製品であったと思います。上廻りは真鍮板のプレス加工でエッチングは使っておらずボイラーバンドや除煙板の縁取りも帯板の半田付けです。空気圧縮機と水ポンプはロストワックスのようですが、その他の部品は挽物、プレスで製作されています。シリンダー部は真鍮板の組み合わせが一般的であった当時としては珍しくダイキャストの一体部品です。主台枠は厚板プレスパーツで、コイルバネを入れることにより軸箱可動となっていました。初期製品の動輪はタイヤが厚く全体の感じを重いものにしていましたが、ドロップ製のテンダー台車は表面にカワイの文字が浮き出ているという大胆な悪戯はあったものの、美しくできています。動力はシュパーブ製品と同様に、模型の主台枠後部に同社製の棒型W-5モーターを取りつけ、ゴムチューブを介してダイキャスト製のギアボックスから第2動輪に伝動しています。全体としてはやはりディテールやすっきりした仕上がりの点でシュパーブのD51に一歩譲りました。1965年(昭和40年)には良くできたドロップ製の2軸従台車を履き、戦後型の船底テンダーをつけたC60を発売しました。この時にブレーキシューやエアホース、除煙板への手すりの取付けが行われディテールアップされました。同年には明治期の代表的蒸機2120型が発売されました。この製品は従来のカワイ製品に比べ比較的すっきりとできておりスケールモデルとしても満足できる製品となりました。残念ながら当クラブでカワイの機関車を所蔵しているものがおらず、写真をお目に掛けられません。 電車・気動車
箱物製品は前述のとおり旧型国電から旧型客車、新性能電車等多くの製品を発売していましたが、上記のソフトメタルの電車の先頭部を除いては真鍮板の半田付けにより組み立てられています。扉は別貼りにして立体感を出し、シル・ヘッダーや雨樋も真鍮帯を半田付けするなど丁寧な工作で好感の持てる製品でした。初期の製品では窓枠は別貼りですが、新性能電車のアルミサッシは後年の製品では透明ビニルの窓ガラスに銀色で印刷して表現しています。床板は当時としても珍しく一貫して木製で、動力装置は当時の標準であった縦型モーターからウォームとインサイドギアで伝動しています。 これらの製品群の中でやはり一番力の入ったのが1964年(昭和39年)に発売された151系で、同年に2回に分け一挙に11形式が発売され大いに気を吐きました。発売されたのはクハ151・クロ151・モハ151・モハ150・モハシ150・モロ151・モロ150・サロ151・サロ150・サハ150・サシ151で、特殊なクロ150を除く151系の全形式でした。先頭のボンネット部はソフトメタルで作られており、ディテールは天賞堂製より多いもののやや重たい感じがしましたが、全体的にはスケール感も比較的良く、好感のもてる製品であったと思います。客用窓の板厚の部分にゴム製の窓押えを表現するため銀色で着色したのは、それなりの効果が認められ好感が持てました。写真はクロ151とサロ85格下げのサハ85、そして153系で、クハ153とモハ153はかなり初期の製品と思われます。 客車・貨車
カワイは真鍮板プレス半田組立の貨車も1950年代から販売していましたが、1961年(昭和36年)にはワム70000を発売しました。この製品の妻部のリブはプレスで美しく表現され、スケールもよく、当時販売されていた貨車模型の中では魅力的で、筆者も一台購入しておりました。台車はドロップ製です。
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2.鉄道模型社
鉄道模型社は日本型16番模型を最初に発売したメーカーで、カワイモデルやつぼみ堂模型店と共に、まさに現在の16番鉄道模型の礎を作った模型店でした。1950年(昭和25年)に大型制式蒸機C61を発売したのを皮切りに、1950年代にはED16・EF58・C62・C12や 20系(後の151系)電車を発売し、大いに日本型の模型界をリードしていました。1960年代に入ると1961年(昭和36年)に輸出向けのダイキャスト製ギアボックスを流用して走行性能を大幅にアップさせたED46を発売、1962年(昭和37年)にキハ20系気動車とED61、1963年(昭和38年)には新製品が集中してC53・C56・ED17・ED71・EF61・EF80、そして初めての急行型電車として153系と451系を発売しました。更に1964年(昭和39年)にはキハ58系気動車と165系電車、1965年(昭和40年)にはEF15・EF18とクモニ13、1966年(昭和41年)にE10そして1967年(昭和42年)にはアプト式のEC40とDD51を発売しましたが、その後は普通の車輌製品の新製品はなくなりました。奇しくもほぼ同時期にカワイも新製品の発売が無くなってしまったのは、その数年前から日本型の16番に積極的に進出し、スケールやディテール、模型としてのセンスを大きく向上させた天賞堂やカツミの存在が大きく影響したのかもしれません。その後模型社は、蒸機や電機のバラキット(現在ではバラキットが主流ですが、組立済みキットが一般的であった当時では、単なる部品の集合体のようなバラキットは珍しい存在でした)を発売したりするようになり、一部のマニアには大変支持されたようですが、総合模型メーカーとしての存在感は薄くなりました。 同社の模型は基本的に真鍮板の半田付け組立によるものでしたが、1950年代の製品のディテールは他社製品同様かなりさっぱりしており、スケールにもやや難点はありました。しかしながら当時スケール物の模型は少なく、かなりのモデラーの方が同社の製品を購入されていたのではないでしょうか。1960年代に入ると設計やディテール、スケール感も時代と共に向上し、所謂普及製品として他社で発売していない多くの形式をリリース、一般ファンに好評を持って迎えられました。EF58やC62も時代と共に改良を続け、最終製品は初期の製品に比べかなりの品質の向上を示していました。筆者も鉄道模型を始めた初期に同社のEF58や20系電車を購入、元気にカワイの木製道床の線路上で活躍していました。 機関車
1960年代に入るとスケールや品質において大いに進歩を見せ、1961年(昭和36年)に発売された試作交流電機のED46は、伝動に輸出用のダイキャスト製のギアボックスを使い、両軸モーターを車体中央に置き全軸を駆動、当時の定石であった縦型モーターにウォーム・インサイドギア伝動の方式を大きくリードしました。車体も当時未だあまり一般的ではなかったエッチングにより側面のベンチレータ等を表現、台車枠にはドロップ全盛の時代にロストワックスを使い、全体の設計にも大いに向上が見られ所謂スケールモデルと呼べる意欲的な製品になりました。その後同社は前述のように多くの形式の新・旧電気機関車を発売しましたが、それらの製品には何故かED46の品質・構成は受け継がれず、プレス加工は美しかったものの以前のレベルに戻ってしまったのは残念でした。ただ1963年(昭和38年)に発売されたEF61は台車枠に立体感のある上質のロストワックスを使い、異彩を放っていました。1967年(昭和42年)にはアプト式の旧型電機EC40を製品化しています。この製品は、車体はほぼエッチング表現のみでさっぱりしていますが、ゴム製のラックレールを使い実際にラック駆動できるというマニアックなものでした。写真のEF15は1965年(昭和40年)発売されましたが、砂箱は同社が別売していた砂撒管も真鍮線で表現したソフトメタル製の部品に交換されています. 1963年(昭和38年)には同社の総力を結集したようなC53を発売しました。このC53は特製品的な製品として当時としては珍しくロストワックスを多用し、当時最高の品質・構成を誇っていたシュパーブ製品を上廻るディテールを持っており、同社もやればできることを世に知らしめました。3シリンダー構造のため特殊な動輪のバランスウエイトは三日月型だったものの、シュパーブ製品にも2-3個しか使用されていなかった高価なロストワックスを同製品のために数多く特製し、それは開閉可能な煙室扉や煙室内のディテール、バックプレート、砂箱等々にまで及びました。主台枠後部と従台車は別部品としてロストワックスで製作し、実物同様従台車のみ首を振る構造になっていました。これらのロスト部品は1970年代の後半まであの御茶ノ水の模型社の店で分売されており、筆者もD50を作る時にこの従台車を使用した覚えがあります。いずれにしてもこのC53は社主の魂を込めたような製品でしたがその分高価でもあり、一般のファンには高嶺の花の特製品で、所謂普及製品を多く送り出していた同社を知っていたファンにとっては驚きの製品でした。 蒸機の製品としてはその後普及製品としてC56が1963年(昭和38年)に、E10が1966年(昭和41年)に発売となりました。これらの機関車は必ずしも一般受けする形式ではありませんでしたが他社で発売されていなかった形式でもあり、従来の同社の蒸機に比べ設計も良くなり、多くのファンのディテール加工の題材になったのではないかと思います。 1967年(昭和42年)には同社は初めてのディーゼル機関車製品として、当時全国的に幹線の大型蒸機を駆逐し始めていたDD51を製品化しました。ディテールはあっさりしていたもののスケールも良く、ディーゼル機関車ファンには喜ばれました。 電車・気動車・客車
その後1963年(昭和38年)に153系と451系新性能急行型電車、その翌年には165系を相次いで製品化しました。車体はやはり真鍮板のプレス加工、半田組立でしたが先頭部のプレスは美しく、その表情を良く捉えていたと思います。客用窓のアルミサッシ窓枠は車体と一体のプレス加工のため、車体と同じ色に塗装されています。写真のモデルは所蔵者がアルミサッシのみ銀色塗装をしたものです。台車は全てドロップ製で、動力は当時の標準であった一個の縦型モーターからウォーム・インサイドギアで伝動していました。1965年(昭和40年)には当時山手線でもまだ活躍していた旧型国電のクモニ13や、モハ50・クハ65を製品化しています。これらの旧型国電は設計も良くディテールも適度で、旧型国電ファンには好評でした。 1950年代から同社はキハ10系気動車を発売していましたが、1962年(昭和37年)にはキハ20系3形式をリリースしました。発売当時気動車製品は市場に少なく、このキハ20・キハ25・キハユニ26の3形式は好評を持って迎えられました。やはり真鍮プレス加工の前面と車体を持ち、ディテールは少ないもののすっきり仕上がっており、筆者の手元にも残っています。1964年(昭和39年)には当時全国的に大活躍を始めていたキハ58系の発売を開始しました。何故か塗装は赤の色調が急行用の朱色ではなく、特急用の赤に近いものであったため印象が違うものとなりました。また車高が低く客用窓隅のRが大きかったこともあり、これらの要因がファンに購入を躊躇させた感は否めませんでした。 模型社は、客車製品は多く発売していませんでしたが、1950年代からナハ10系客車を販売していました。ディテールは殆んど無いものの、やはり10系客車は当時の花形であり、筆者も模型の世界に入った当時に購入した一台の車体が手元に残っております。 (2008年4月 M.F) |
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