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吉岡さんの足跡

昭和47年(1972)10月14日はノーブルジョーカーの設立記念日です。 この年に高校を卒業した鉄道研究会の模型班の吉岡さんを含む7名と一年後輩の私の計8名でスタートしています。 のちに3名が加わりましたが、メンバーはこの二学年に限られています。
吉岡さんといえば貨車の研究家として知られていますが、学生時代はバリバリのモデラーでもありました。 ここでは後輩の目から見た吉岡さんの足跡を綴ってみようと思います。
(画像は著作権、肖像権、模型の所有権等の関係者の承諾をいただいております)

◆高校の鉄道研究会
時は昭和44年(1969)、高校に進学した吉岡さんは鉄道研究会に入部しました。 当時の鉄道研究会には研究班と模型班があり模型班に所属しています。 3年間の高校生活で色々とエピソードはありますが、私の独断による高校時代の四大事件をご紹介しましょう。

一つ目は、入部の際に先輩から「やりたいことは?」と聞かれ「貨車と信号がやりたいです」と答えて先輩達をのけぞらせたそうです。 国鉄が無煙化に向かっていた時期だけに、ダイヤ改正のたびに??線がDL化された、 次は○○線が危ないと言ってSLを追いかけるのが普通でしたからSLとは無縁の嗜好は超がつくマイナーでした。 既に興味は今と変わらず、学校から近い新鶴見操車場には足繁く通っていたようです。

二つ目は、教室で席が一番前だったにもかかわらず、授業中に泥溜めの工作をして教師に「いい度胸している」と言わせたそうです。 この泥溜めとやはり自作した罐水清浄装置がS・NのD52に積まれていて今なお現役です。 教室で使ったかどうかは定かではありませんが、 ハンダづけにはソルダーペーストと油差しを改造したアルコールバーナーを愛用していました。


三つ目は、3年生の文化祭では最上級生として組立式レイアウトを製作したのですが、 組立式レイアウトには珍しく米粒球を使った信号機を自作して設置したのです。 信号好きの知識を駆使し、理にかなった位置に配置されていました。その信号の操作は完全手動でしたが、 それはまさに運転指令そのものでした。 ただ、ATSがないので信号無視の運転士が続出しましたが、不思議と事故は起きませんでした。 この工作が吉岡さんとの師弟関係の始まりだったように思います。

四つ目は、その文化祭の打ち上げで大ジヨッキのビールを13杯呑んだのです。 酔ってないと言い張って貨車の知識を披露していましたが、帰り際にロビーのスツールに座ったらそのまま前に倒れこんでしまいました。 体重が120キロあるので二人がかりでないと起こせず、やっとのことでタクシーに乗せて帰りました。生涯ビール好きでしたね。

◆大学の鉄道研究会
昭和47年(1972)に大学の工学部応用化学科に進学するとやはり鉄道研究会に入部しています。 翌年、私も入部しましたが、ノーブルジョーカーの会員で入部したのは何故か3名だけでした。 ノーブルジョーカーも設立されているので、吉岡さんとは鉄道研究会とノーブルジョーカーの二つの場面でご一緒することになります。

〇文化祭


文化祭には鉄道研究会も参加していますが、高校の時のように大きな会場が確保できず組立式レイアウトによる模型の運転は出来ませんでした。 写真と文字パネルによる研究の発表が主体でしたが、そのような状況にあっても模型心のあるメンバーによる試みがありました。 昭和47年(1972)は研究テーマに合わせてナハ11とサハ181の1/10のカットモデルを製作、展示しています。 このカットモデルはTMSの299号(1973-5)に掲載されましたのでご記憶のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

昭和49年(1974)のテーマ「複々線」ではパネルだけでなく、Nゲージを加え立体的なで発表でした。 複々線の一端のカーブの上に机と椅子を積み上げて運転台とし、1/2(だったかな?)のクハ103の前面を模したパネルで運転台を隠しています。 実物同様に運転台で電車を運転しましたが、このクハ103の前面の製作では吉岡さんがチーフ的存在でした。 ヘッドライトの反射板に学食のどんぶりを使ったことを覚えています。

昭和50年(1975)のテーマ「あさかぜ」では吉岡さんが中心となりナロネ22のカットモデルを製作しています。 1人個室を中心としたもので、個室の壁が倒れて座席と寝台の転換ができる凝った造りに吉岡さんのこだわりが感じられるものでした。 モケットの色を確認するために東京駅まで「あさかぜ」の取材に行ったものです。



〇私鉄電車のアルバム
鉄道研究会の先輩が私鉄ガイドブックを出版していましたが、その後の新車、 昇圧による変化など加えた改訂版を出そうという話しが進んでいました。 紆余曲折あり出版社を交友社に替え、会社別から年代順に変更してスタートしたのが昭和48年の後半だったと思います。 この「私鉄電車のアルバム」の編集グループに吉岡さんも参加しています。
取材(撮影)はその都度3〜5人程度のチームが組まれて××へ行けと指示が出るのですが、時にはトラブルもありました。 吉岡さんが参加したチームが近鉄の車庫を訪問したところ連絡が現場に届いておらず撮影が出来なかったことがありました。 手ぶらで宿舎に戻るのも、と吉岡さんは帰り道の駅名標を一駅づつ撮ったのですが、 フイルムを無駄遣いしないようにと親分から注意されてしまいました。 その親分は今は不動産会社の社長になり電車の顔を自社ビルに飾っています。

○合宿
夏休みには合宿があり、それぞれ興味のある場所を訪ねながら合宿地に向かったものです。 貨車の吉岡さん、客車の私の形式写真派は皆と目的地が異なることが多く、形式写真派を中心としたグループで移動したものです。 昼間はそれぞれの目的地に散りながら移動の列車や宿泊地で集まり、どこどこに何々がいた等情報交換したのも楽しい思い出です。



○模型の運転会
2月8月の百貨店は閑散期でしたので各社とも集客には知恵を絞っていました。 国鉄からSLが引退したタイミングからでしょうか、お話しをいただき昭和50年(1975)8月に日本橋の島屋で開催された 「鉄道模型早慶線」に鉄道研究会として参加しています。 今でしたら「貨車なら吉岡さん」ですが、当時は「模型なら吉岡さん」でもありました。

島屋の催しが賑わっていたからでしょうか、続いて東芝EMIのプロデューサーから声がかかり、 11月には東芝のショールームGINZA 7で二週間ほど模型の運転を行いました。 この時はTMSの取材もありTMS331号(76-1)に掲載していただきました。

●模型
吉岡さんの模型は別項で紹介がありますので重複しない話題を簡単に触れておきます。



○コレクション
二子玉川の「いさみや」は高校時代から馴染みの店の一つです。 お店を改装した時にお客様の模型を展示するギャラリーが設けられ、社長から声がかかりました。 昭和48年(1973)10月にノーブルジョーカーの SN、JMと三人でNゲージの貨車を1000両展示しています。 1000両のうち700両は吉岡さんのアメリカ型貨車でした。

○模型店
学生時代は自宅(最寄り駅は池上線の千鳥町駅でした)から比較的近い二子玉川いさみや、雑色のピノチオによく通っていました。 一緒にピノチオにいった時、手をついてショーケースの中の部品類を上から覗き込んでいたのですが、 つい夢中になったのでしょうかケースの天板のガラスを割ってしまったことがあります。実はこれが二度目で、 一度目は大阪のマッハ模型でショーケースのガラスを割っていました。 悪意ではなく模型店でショーケースを壊した人は、きっと他にはいないですよね。





○貨車の加工
我々の学生時代、16番の貨車のスケールモデルといえば、天賞堂のプラ製(エボナイト?)と中村精密のプラ製があげられるでしようか。 これらを加工した貨車達がTMS373号(79-5)に掲載されています。 また、GINZA 7で注目を集めた45両のカワイのセムは後輩の9600とともにTMSの表紙を飾っています。 模型にも精力的に取り組んでおられましたが、やはり貨車研究との両立は難しかったようで、 徐々に模型の工作からは撤退していくことになります。

●貨車研究
高校時代は貨車の情報も乏しく、写真を撮っていくに従い、何形の何番から何番の所有者がどこどこと判明した、 そんな活動から始まっています。
そして、「無いなら作る」と携帯用のポケット版の資料を作成、 情報収集のネットワークを広げようとこれを鉄道研究会の仲間などに配っています。 今以上にマイナーだった貨車趣味ですが、少しでも貨車に興味を持ってもらえればと力を入れていました。




気が向くと(?)私やノーブルジョーカーのSNを誘って貨車を撮りに行くこともありましたが、多くは「車で連れていけ」でしたね。 吉岡さんは教習所に通ったのですが、教官とケンカして運転免許は取らずじまいでした。

写真の撮影は紳士的と言えばいいのでしようか、現場の好意で貨車区や駅など構内での撮影をさせてもらったあとは、 近所の商店に寄りお礼として酒や煙草を届けてもらうよう手配していました。 私も客車区などお世話になった現場が数多くありますが、そこまでは気が回りませんでした。
そんな姿勢でしたから数少ない貨車ファンの中でも突撃派とは距離を置いていました。 例外は東京貨物ターミナルで、毎年のように正月三が日に無人の構内に突入していました。 フォークリフトとトラックが走り回る構内はたしかに危険なのでお願いしても撮影は許可されなかったようです。 なお、今は防犯カメラで監視していますので真似しないでくださいね。

一方、情報の収集では国会図書館に通い、鉄道公報のチェックを始めます。鉄道公報には車籍編入、 所有者や常備駅の変更などの情報が掲載されていますが、 公報自体が本社からの発信ゆえ様々な膨大な情報の中から必要な情報だけを収集するだけで大変な労力が必要でした。 大学院を卒業すると東芝に就職しますが、社会人になってからは早起きして出勤前を収集した資料の整理タイムとしていたそうです。 夜はビールを呑むので駄目なんだそうです。

吉岡さんと言えば貨車のことを何でも知っている、そんなイメージを持っている方が大半だと思いますが、 吉岡さんの一番の好みを知っている方は少ないのではないでしょうか。 で、一番好きなのは化成品タンク車、中でもカセイソーダ専用車を大好物としていました。 化学工業界を理解すれば積荷の行先がわかるし、運用先がわかれば写真を撮りに行けると化学会社の社史を買って調べていました。 このあたりは、大学の学科に応用化学を選んでいることにも繋がっているのではないでしょうか。

●貨車仲間
少ないとは言っても貨車に興味を持つ人はいるものです。



〇鉄道友の会
大学時代の昭和48年(1973)に鉄道友の会に入り、東京支部の客貨車気動車部会に出席するようになります。 貨車だけの会報「車掌車」に寄稿したり、例会の議事進行に関わったりと活躍するとともに人脈を広げてゆきます。
ここでちょっと名前に触れておきましょう。「心平」という名前は、ともすると今で言うイジメの標的になりかねないと思うのですが、 体重120キロの容姿とあわせて初対面でもすぐに覚えてもらえると前向きにとらえていましたね。 そして吉岡家では名前に「平」を入れるのが伝統とご子息の名前にも「平」の字を入れています。

〇貨車研究者協会
客車・気動車と一緒の例会では時間的制約もあり、昭和53年(1978)4月には東京支部の承認を得て東京支部貨車部会として分離独立します。 しかし、貨車部会での活動に限界を感じるようになった吉岡さんは鉄道友の会を離れ、 貨車研究の方向性が近い人達と貨車研究者協会を発足させます。 ちょうど国鉄の分割民営化が具体化してきた頃です、国鉄では部内書類の整理に手をつけ始めましたので、 資料の廃棄や散逸が危惧されていました。 これまでに培った人脈を駆使して貴重な資料を借用のうえ複写して頒布、メンバーの共有財産としています。

また、全形式を網羅する貨車の解説本の出版を模索しています。 かつて電気車研究会から「日本の××」がシリーズ展開されましたが、「日本の貨車」は出版されていません。 誠文堂新光社の客車貨車ガイドブックも主要形式しか掲載されていません。 ディープな貨車研究者達は最高の貨車本を目指して準備を進めました。 しかし、部分的には稿本を作成したものの、全体のボリュームを考えると商業出版は困難が予想され、この活動は停滞してしまいました。 既にかなりの量が完成していること、定年を迎え余暇を手に入れた方々もおられることから、 何とか出版できればと個人的には思っています。

●マイカー
吉岡さんがマイカーを持っていることをご存知の方も多いかと思います。 現在は貨物鉄道博物館に収蔵されているタ2001ですね。タ2001は、昭和14年(1939)にタム200形タム274として新潟鉄工所で新製、 昭和16年(1941)に専用種別を二硫化炭素からアルコールに変更しタ2000形タ2001となりました。 二硫化炭素に比べアルコールは比重が小さいためタムからタになっています。 よんさんとお対応で二段リンク化され平成8年(1996)まで車籍がありました。

たしか廃車時点で最古のタンク車であったこと、サイズ的に手ごろだったことから購入に踏み切ったと思います。 購入後は福島臨海鉄道の宮下駅に置かれていましたが、平成26年(2014)に貨物鉄道博物館に移動、 平成28年(2016)に化粧直しをうけ現在は綺麗な姿で展示されています。



●貨車の保存活動
貨車研究者協会にふるさと鉄道保存協会のメンバーが合流します。 貨車研究に加え、これ以降は貨車の保存活動にも吉岡さんの名前を見るようになります。



平成15年(2003)に開館した貨物鉄道博物館の設立に尽力し、開館後は役員に名を連ねています。 三岐鉄道は利用者増を図る対策として各駅に集客できる特徴を持たせる計画を進めていたとのこと、 その一環で丹生川駅構内の場所を提供いただくことができました。 開館後も日本AEパワーシステムズ(日立製作所、富士電機、明電舎三社の合弁会社)からシキ160を譲り受ける際にも活躍しています。 このシキ160は平成22年(2010)に国立科学博物館が定めた登録制度により 保護される文化財として重要科学技術史資料第00048号の指定を受けています。 この重要科学技術史資料に選定された鉄道車両は現在のところ他には交通科学博物館の0系4両しかありません。

また、浜松工場に事業用として残っていたトキ900の復元のお手伝いや、 JR貨物が宇都宮貨物ターミナル内で保管していた貨車を処分することになった時は、 那珂川清流鉄道に話をつないで保存が実現しています。

●執筆活動
吉岡さんの最初の執筆は昭和52年(1977)に鉄道ファンに掲載された貨車千夜一夜でしょうか。 昭和59年(1984)からは鉄道ピクトリアル増刊の新車年鑑で貨車部門を担当しましたが、 吉岡さんの名前が広く知られるようになったのは平成5年(1993)のレイルマガジン119号から連載された 私有貨車セミナーが大きいのではないでしょうか。 私有貨車セミナーは287号の第167回まで続き、途中から並行して国鉄貨車教室が始まっていますね。 そうそう、トワイライトゾーンマニュアルにも記事を書いていて「5時からのほうが忙しい」なんて言ってました。

〇十人十色
単行本としては最初にノーブルジョーカー自費出版の「十人十色」を紹介しないといけませんね。 10人の会員のそれぞれ好き勝手な話題で構成されており、吉岡さんはもちろん貨車で参加されています。 平成12年(2000)出版の十人十色ではエアスライドホッパ車、平成19年(2007)出版の十人十色Uでは冬の越中島駅を取り上げています。

特に十人十色Uでは商業出版ではまず採用されないA4見開きに形式写真1枚というレイアウトに挑戦しています。 モデルスIMONにはまだ在庫がありますので、興味のある方は是非お求めいただければ幸いです。



〇私有貨車図鑑
客車貨車ガイドブックに代表形式しか収録されていなかったことに不満を持っていましたが、 この本で私有貨車というジャンルでは目標の一つが実現することになります。
平成9年(1997)に出版されたこの本では平成7年度末に在籍する私有貨車全形式を収録しています。 貨車趣味のバイブルとして古本にプレミア価格がつくようになり、 平成20年(2008)には平成18年度末に在籍する私有貨車全形式を収録した復刻増補版が出版されています。

〇日本の貨車
日本の貨車というタイトルですが、かつての電気車研究会の一連のシリーズとは異なります。
発行所が社団法人日本鉄道車輌工業会、編者は貨車技術発達史編纂委員会です。 20名の編纂委員のうち19名は国鉄又はメーカーの方々で吉岡さん1人だけが趣味界から参加しています。 実際には吉岡さんの貨車仲間の協力が大きかったようです。
サブタイトルにある通り技術の発達を軸とした構成ですが国鉄貨車のガイドブック的な使い方も可能な内容。 A4版で876ページはかつての電話帳を越えるボリュームです。

〇よみがえる貨物列車
明治期から現代に至るまでの代表的な貨車を紹介していますが、気楽に読める本を目指している点が日本の貨車とは異なります。
この本を読んで貨物ファンになっていただければ幸いです。

〇RM LIBRARY
吉岡さんの著書といえば一連のRM LIBRARYですね。実に16冊が出版されています。





車を運ぶ貨車だけは渡辺一策さん編で吉岡さんは著者の一人です。

これら一連の著作に対して平成24年(2012)には鉄道友の会の島秀雄記念優秀著作賞の特別部門に選定されています。

〇月刊誌など
レイルマガジン誌以外の連載としては、とれいんには平成23年(2011)3月号から2021年2月号まで105回にわたる国鉄時代の私有コンテナを連載、 3月号からはJR初期の私有コンテナの連載が始まっていました。
他にはJトレインには物適貨車めぐりがありましたね。

〇最新刊
この4月下旬にはイカロス出版から吉岡心平の貨車研究シリーズとしてタキ3000一形式だけで274ページの本が出る予定になっていました。 完成間近だっただけに何らかの方法で出版されることを願っています。

●テレビ出演
趣味人(それもかなりディープな)を紹介する熱中時間という番組がNHKにありました。 鉄道記念日がある秋には鉄分補給スペシャルと称して様々なジャンルの鉄道ファンが紹介する特番が組まれていますが、 平成19年(2007)11月11日に放送された2回目の鉄分補給スペシャルに吉岡さんが出演しています。
シキ160の貨物鉄道博物館への搬入のレポートもあり、この回の目玉的な扱いでした。 翌年にはNHKエンタープライズから番組のDVDが発売され、これは今でも入手可能です。

●CD−R
早い時期から貨車趣味の普及、および撮りためた写真の幅広い活用という観点から画像の頒布を行っていました。
「吉岡心平の貨車ホームページ」に頒布のお知らせが掲載されていたので目にされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

●撮影機材
35mmはCANON派でした。大学時代にはF1を使っていましたが、画像のクオリティからブローニー版をメインとしていました。 ただ、一般的な6×6ですと形式写真の場合には無駄が多いことから最初は6×9のマミヤプレスを、 ペンタックスから6×7の通称バケペンが発売されるとこれを購入、初代は使いつぶし2台目を購入しています。 50歳代になると脊柱管狭窄症の影響で歩行に支障が出るようになったこと、 貨物輸送が車扱からコンテナに移行したこともあり撮影に出なくなり、 オートフォーカスやデジタルカメラは使っていませんでした。


高校から最近に至る吉岡さんの足跡を記憶の限り辿ってみました。貨車に限らずとも、 鉄道趣味の世界でこれだけの足跡を残された方は少ないのではないでしょうか。 まだまだ活躍して欲しかっただけに残念でなりません。
(2021年5月 H・T)