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吉岡さんを偲んで、同期のSNが我々のクラブを代表して綴ってみたいと思います。
1、高校時代
吉岡さんと知り合ったのは高校の鉄道研究会でしたが、同じ模型班に属していたことと自宅が近かった
(彼が池上線千鳥町、小生が目蒲線奥沢)こともあり彼とは一緒に行動することが多かったと思います
(吉岡さんも小生も体重が重かったので二人で200キロコンビなどと言われていました)。
(1)高校鉄道研究会時代
高校の鉄道研究会では4月に足尾線(現わたらせ渓谷鉄道)で新入生歓迎合宿をするのが恒例になっていました。
2年生の時(1970年)に宿舎に向かうため足尾線の気動車(確か3両編成ぐらい)に乗っていると、ある駅で止まってしまいました。
車掌さんが来て、この車両のエンジンがオーバーヒートしたのでこの車だけエンジンを止めて運転すると告げられました。
みんなからはおまえたち二人が乗っているせいだと言われたのを覚えています。
左の写真は帰りに寄った小山駅で撮った写真ですが右に立っているのが吉岡さんです。
右は3年生の時(1971年)鉄道研究会で関東の私鉄の車内装備を比較するという企画で各私鉄を回ったときに
東急元住吉検車区での記念写真で、ノーブルジョーカーのメンバーが4人写っています。
(2)模型店めぐりと展示会
高校時代は二人で模型店巡りをよくやりました。いさみや→天賞堂→三越→高島屋がお決まりのコースでした。
三越と高島屋は足跡に書かれているいさみやでの展示に使用したNゲージの貨車探しのためでした
(彼はアメリカ型、小生はヨーロッパ型を集めており、当時外国型のNゲージ貨車は
デパートのおもちゃ売り場に行かないとなかなか珍しいモノには巡り会えませんでした)。
下の写真は小生が集めた当時のヨーロッパ型貨車の中からビール会社の冷蔵車とタンク車を中心に並べたものです
(いさみやで展示した車輌です)。
(3)品鶴線通い
また日曜日には目蒲線の沼部駅(現在は東急多摩川線)で待ち合わせて一日中品鶴線の多摩川橋梁で貨物列車や貨車の写真を撮ったものでした。
頻繁にいろいろな列車が来て一日中いても飽きることはありませんでした。写真も200枚以上残っています。
下の写真は何時撮ったものか不明ですが左はEF15+EH10+EF65の三重連、右は吉岡さんが好きだったカセイソーダタンク車の三連です。
(4)マイクロトーチ
お互いのうちでよく一緒に模型を作ったりもしました。足跡や模型に出てくる自作のトーチは一緒に試作しました。
当時ソルダーペーストという半田とペーストを混ぜた練り歯磨き状の商品が入手できるようになり、
それ用のマイクロトーチなる商品も売られていましたが高校生が買える値段ではありませんでした。
そこで当時普通に売っていたミシン油用の油差しを改造してアルコールランプ用のアルコールを使う自作のトーチを作りました。
下の図にあるように油差しの先端部を切断し木綿糸の芯を入れ、
タンクに半田付けした真鍮パイプから息を吹き込むと炎が横にたなびいて加熱したい部分に届くという原始的な構造です。
試作一号機はタンクの部分に空気穴を開けなかったため火をつけたところ内圧が上がりアルコールが噴き出して大騒ぎになったことを思い出しました。
改良型では空気穴をつけたので安全に使えるようになりました。右の写真は使用した油差しです。
(5)撮影旅行
高校時代は夏休みや春休みを利用して九州や北海道に撮影旅行に出かけました。
吉岡さんとは夏休みに九州へ2回、春休みに北海道へ1回一緒に旅行しています。
写真は1971年2月から3月にかけて北海道へ行った時に美唄鉄道を訪問した時のものです(美唄鉄道訪問記は十人十色IIに掲載しています)。
左は訪問初日に添乗させていただいたラッセル車です。右は翌朝訪れた三美運輸専用線で1号機の後ろを歩いているのが吉岡さんです。
2、大学時代とノーブルジョーカー設立
高校卒業後は大学や学部もバラバラになってしまうので、みんなで時々集れるように有志で結成されたのがノーブルジョーカーでした。
発足の経緯はクラブ紹介にありますのでご覧ください。
(1)組み立て式レイアウトの運転会
大学時代にも年1〜2回等々力の玉川区民会館で運転会を行いました。
左の写真は初代のヤードの横に座っている吉岡さんです。
レイアウトボードの側板に使用したF型断面のアルミ引き抜き材は吉岡さん達と一緒にいろいろな店を廻り
横浜浦舟町の材料店で見つけて購入しました。
ノーブルジョーカー 組み立て式レイアウト紹介に記載があるように基盤の下のスペースが狭いため
ポイントマシンはキャラメルモーターを使った薄型のものを自作しました。
右の写真がそれでキャラメルモーターと3φの寸切りネジを使ったモーター駆動のマシンです
(LEMACOのポイントマシンと基本的に同じような機構ですが遙かに小型です)。
40台近く造りましたがマシンの背中に通し番号を001からエッチングで表示して後々の管理に配慮したのは吉岡さんのアイデアでした。
試作機には900番台のナンバーが刻印されています
(写真では右端のナンバーが刻印されているフレームの長さが短いのが試作機で、
試作機はストロークが不足気味だったので量産機ではストロークを長くとれるようにフレームを延長しました)。
(2)麻雀合宿と撮影旅行
運転会以外でも時々集まって麻雀をしたり撮影旅行に行ったりしていました。
奥多摩の御岳山と白河の新甲子温泉には何度か行きました。
左の写真は麻雀合宿で御岳山の国民宿舎に泊った翌日拝島に行ったときの写真で、しゃがみ込んでホキの写真を撮っているのが吉岡さんです。
右は奥多摩駅で撮ったED16の写真です。
白河の新甲子温泉にも2回ほど行きました。どちらも国民宿舎みやま荘に泊まりましたが下の写真は左が一回目(1975年12月)、
右が二回目(1977年3月)に行ったときのものです。一回目の時は二泊しましたがとにかく寒かった記憶しかありませんでした。
温泉はぬるめでいくら長く入っていても寒くて出られませんでした。
また部屋には暖房がなくコタツに足を入れる形で十文字に布団を敷いて寝るのですが
翌朝枕元に置いてあった飲みかけのお茶がカチカチに凍っていたのが記憶に残っています。
最終日は豊原駅付近で東北本線の列車を撮影後つばさ51号で帰りました。
二回目は翌日白河駅から東北本線→烏山線→バス→真岡線(現真岡鉄道)→関東鉄道常総線→常磐線と乗り継いで東京まで戻りました。
写真は帰りの白河駅での集合写真です。
3、社会人以降
最後に社会人になってからの思い出のイベントの写真を三つ紹介したいと思います。
(1)運転会
2000年以降の運転会の様子はHPの模型運転会にありますのでそちらをご覧ください。
写真は1982年に行った運転会の様子です。当時は子供たちが小さかったので家族みんなで参加するメンバーも多くいました。
左が会場での集合写真、右が運転会後の懇親会の様子です。
家族の協力があってこそこの会を現在まで続けることができたのではないかと思っています
(メンバーの家族全員で伊豆のペンションを借り切って一緒に旅行したこともありましたね)。
横の写真は懇親会の時の吉岡さんのスナップです。
(2)島秀雄記念優秀著作賞受賞祝賀会
これは足跡に記載がある島秀雄記念優秀著作賞の特別部門を受賞された時にメンバーで祝賀会を行った時の様子です。
祝賀会は2012年10月28日 関内の串揚げ「磯むら」で行われました。左は記念の楯と吉岡さんを中心に撮影されています。
右の集合写真にはメンバー全員が写っています。
(3)しんちゃん列車
東芝の上級研究員だった吉岡さんが会社を退職するに当たり2010年3月17日にイベント車輌「宴」を貸し切りで退職記念会が開催されました。
18時49分根岸駅を出発して根岸線→大船→東海道貨物線→小田原→東海道本線→根府川駅19時40分着でした。
しばらく根府川駅に停車して帰りは21時25分根府川駅発で往路と同じ経路を通り22時12分に根岸駅に戻るダイヤでした。
号車ごとに東芝関係、鉄研関係、貨車研究者協会関係など分かれて乗車しており吉岡さんは忙しそうにその間を行き来していました。
左の写真は吉岡さんご家族の集合写真で右は高校鉄研のメンバーとの記念写真です
(吉岡さんを含め6名はノーブルジョーカーのメンバーです)。
吉岡さんは我々クラブの知恵袋的存在であっただけでなく、人脈も豊富で貨車研究のみならず模型の制作のアドバイスなどもされていました。
吉岡さんから享受された知識や蘊蓄は我々クラブ会員の中で生き続けている事はもちろん、
多くの著作を通じて全国の同好者の心に刻まれています。
半世紀以上の趣味活動を共に歩んでこられた事に感謝したいと思います。
最後に2013年の忘年会での集合写真をご覧に入れます。これがメンバー全員で撮った最後の写真になってしまいました。
心よりご冥福をお祈り致します。
(2021年6月 S・N)
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