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木島駅に停車中のモハ1(手前)+クハ51。この時は、2004年に 廃止された河東線信州中野〜木島間(通称:木島線)の運用に 就いていました。 |
1993年11月21日 木島駅 |
モハ1の相方、クハ51。 |
1993年11月21日 木島駅 |
長野電鉄のOSカーは、その端正なスタイルから話題になりましたねぇ。 ノーブルジョーカーでも今やすっかり軽便の人になってしまったN・I が中学生の頃にペーパー車体で自作しています。 客車屋の私も好きな電車です。
今や地方私鉄はどこも大手の中古車両ばかりになってしまいましたが、 このOSカーが生まれた頃はオリジナル設計の新車も珍しくありませんでした。 でも、OSカーは衝撃的でしたねぇ。 今月の友情出演はT・Oの撮ったOSカーをご覧ください。
(2018年10月 H・T)
現在の長野電鉄は、長野駅〜湯田中駅を結ぶ一路線だけですが、 原点は須坂や中野などの千曲川東岸(河東地区)を信越線の屋代と結び、 輸送近代化を目的とした河東鉄道にあります。 そのため屋代〜須坂〜信州中野〜木島間を河東線と名付けて本線的な役割を担ったいました。 その後、長野〜須坂を結ぶ長野電気鉄道が開業し、合併、長野電鉄となり、 山の内線(開業時は平穏線と名付けましたが、その後改称)信州中野〜湯田中間を開業しました。 しかし、乗客数減少により信州中野〜木島間、屋代〜須坂間が廃止され、 残った河東線(須坂〜信州中野)と長野線(長野〜須坂)、 山の内線(信州中野〜湯田中)を併せて、長野線と改称しました。
私が中学生の頃ですので、1960年代終わりでしょうか、 上野駅から昼間急行として湯田中行きが運転されており、乗ってみたいと思った記憶があります。 この急行は、スキーブームもあり、1992年(昭和57年)まで運転されていました。
このように1960〜80年代は地方鉄道でもかなりの乗降客があり、良き時代でした。 そのような中、1966年(昭和41年)長野電鉄に彗星の如く、 突如として0系が登場して私は小学生でしたが、「なんとカッコいい電車なんだろう」と思いました。 この車両は、朝のラッシュ輸送に対応するために開発され、 Officemen&Studentsの頭文字から「OSカー」と呼ばれました。 20m車で、当時は雪国では珍しかった4扉、前面はFRPを採用、 急勾配の山の内線を考慮した135kW主電動機を装架しました。 当初の製造は、2連2本でしたが、5本の増備計画もありました。 しかし、乗降客が減少してきたことやワンマン化改造が構造上難しく、 また発電ブレーキが未装備で運転上の制約があり、 1997年(平成9年)、3500系(元、営団3000系)に置き換えられました。 廃車後も、このトップナンバー編成(モハ1+クハ51)は保存目的で須坂駅構内に留置されていましたが 2002年(平成14年)に解体されました。
(2018年10月 T・O)
長野〜善光寺間地下化に際し、0系の後継車種として誕生した 10系。こちらは、3扉20m車で発電ブレーキを装備しましたが、 1本のみの製造で、あとは、2500系(元、東急5000系)が導入 されました。2003年廃車、2017年に解体されています。 2012年 2月27日 須坂駅