トップページへ戻る 目次ページへ戻る






 大阪市電は、京都市電から8年遅れの1903年(明治36年)からスタートし ました。 最初に開業したのは、第五回勧業博覧会を機に着工された大阪港建設により、脚 光を浴びつつあった大阪市の西側、花園橋〜築港桟橋間でした。 博覧会の影響でしょうか、創業当初から路面電車としては、最初で最後となる二 階建電車を投入し、大阪人の意気をみせています。 それ以降、大阪人に親しまれ、戦争時で何輌もの車輌を失いましたが見事に復興 し無音電車を製造するなど力を入れ、大阪経済を支えてきましたが、昭和30年 代から自動車洪水に負け、地下鉄の整備と引換に1969年(昭和44年)その 姿を消してしまいました。 そんな大阪市電の良き時代でもあった戦前の姿を紹介します。 当時は、旧型車が更新され、マルーン一色になりつつある時代でしたが、まだダ ブルポールでいかにも商都にふさわしいにぎやかな走行音を響かせながら市内を 駆け巡っていました。 また、大阪は水の都らしく川や運河がたくさんあり、天王寺を市電は阿部野橋を 呼んでいたように停留所に橋の名前が多く付けられていた記憶があります。 なお、ダブルポールは終戦後、架線の単線化がなされ、しばらく片ポールで走行 していた記憶がありますが、1950年(昭和25年)にビューゲル化工事が完 了しています。
 写真は、1940年(昭和15年)撮影です。


ダブルポール
 普通、直流の場合は+を架線から取り、−はレールに逃がしますが、 ダブルポールは+、−ともに架線を使用する方式です。 市内電車が走り始めた頃、架線は一本だったのですが、 その漏洩電流が地下に埋没してある水道管を電気腐食させることが問題となりました。 そのため、市内区域の電車については+、−の二本の架線を用いる複線式が建設の条件となりました。 大阪市電についてみれば、開業第一期のときは一本ポールで走っていましたが、 1908年(明治41年)の第二期からダブルポールとなり、 従来線も改められています。しかし、複線の架線も電気腐食の防止方法技術が進み、 戦中・戦後には資材難などもあり、順次単線式の架線となっていきました。 そして1950年(昭和25年)にビューゲル化工事が完了しています。




トップページへ戻る 目次ページへ戻る