廃止線回想(1) 興浜北線



 1987年の国鉄からJRへの移行に伴い多のローカルが廃止されました。 幸運にも我々は、これらのローカル線にSLが活躍している姿に 接することができた年代です。しかし、ローカル線であるがゆえに、 当時も脚光を浴びる事は多くはありませんでした。線路が廃止された今、 このような路線が存在したこと自体が忘れ去られようとしています。 ひっそりと消えていったローカル線とそこに働いていたSLたちの勇姿が このまま人々の記憶から消えていくのがしのびなく、ここでそれを紹介 させていただきたいと思います。





 興浜北線はオホーツク沿岸の町・浜頓別から北見枝幸まで 30.4kmの路線で昭和11年に開通しました。 名前のとおりオホーツク海に沿って 興部と浜頓別を結ぶ計画で両側から工事がスタートしましたが、 それぞれ、部分的に工事の完了した区間だけで営業が開始され、 北側は興浜北線、南側は興浜南線と名付けられました。晴れて 全線開通のあかつきには興浜線と命名される予定だったのでしょうが、 結局結ばれることなく両線とも廃止されてしまいました。



 私が興浜北線を訪れた1971年の時点で旅客列車はすべて気動車化されて いましたが、9600の牽く貨物列車が1往復残っていました。 ところが、いざ撮影計画を立てるにあたり貨物のダイヤを調べたところ、 これがとんでもない時間に走ることがわかりました。朝の下りは、 始発の旅客列車の前に浜頓別を出発し北見枝幸へ到着してしまいます。 時間は忘れましたが、早朝の出発でたとえ浜頓別に宿泊したとしても 日の出前のため走りの写真は到底無理な時間だったように記憶しています。 そのため仕方なく下りはあきらめ、折り返しの上り1本にかけることに しました。  できあがった計画は、札幌→(急行利尻)→音威子府→(天北線)→浜頓別 と乗り継ぎ、浜頓別からは始発の気動車で一旦終点の北見枝幸まで行き、 折り返しの気動車で目梨泊駅へ戻るというものです。 一旦、北見枝幸まで行くのは乗り潰しのためと、天候や荷物の状況により 運休することの多い貨物列車の運転を確かめるためです。 午前4時前に音威子府で乗り換えねばならないという問題はありましたが、 貧乏学生で旅館に泊まるお金もなかったので、この計画でいくことにしました。

北見枝幸駅にはちゃんと9600が到着していた。 折り返しのため窓の雪払い

 1971年2月25日、危惧された音威子府での寝過ごしや列車の遅れもなく 予定通り北見枝幸に到着しました。そこには元気に煙を上げる49648の 姿がありました。 駅でひとしきり写真を撮ったあと、折り返しの気動車で目梨泊へと 向かいました。
 目梨泊は、興浜北線で写真を撮るなら是非とも オホーツク海をバックに走る9600を撮りたいと思い、 あらかじめ地図であたりをつけておいた場所です。往きの気動車の車窓から 撮影ポイントの確認ができればよかったのですが、夜明け前で暗かったため 確認できないままの訪問となりました。(こう書くと辻褄が合ってきますが 本当は明るくなっていたのに眠っていたためかもしれません。都合の悪いことは すぐ忘れる性格なのと、30年前のことで本当に記憶が曖昧なので、とりあえず そういう事にしておきます。)



斜内山道を行く9600の除雪列車
 目梨泊は予想していた通り海沿いの好撮影地でした。天候は曇りで 小雪もちらついていましたが、撮影できない天候ではありません。
 待つことしばし、汽笛が聞こえて北見枝幸で見た49648が姿をあらわしました。 ところが、やってきたのはなんと貨物列車ではなく除雪列車でした。


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